暇記

カキーン

リサイタルについて綴る。

関ジャニ∞リサイタルに行ってきた。

まず最初に関ジャニ∞リサイタルの開催が新聞等で発表された日の記事を再見してみる。
私は阪神ファンなので、とりあえずデイリーを。
http://www.daily.co.jp/gossip/2015/04/19/0007934568.shtml


この新聞発表があった時、私は「ドームツアーを毎年やっていて昨年はスタジアムまで完売・激戦にさせているこの人たちは、この12年目に入ろうとする年にいったい何がしたいの?!」と思ったことを覚えている。
で、実際にリサイタルを見て、その疑問は解決したどころかさらに深まり迷宮入りになってしまったといっても過言ではない。


先の新聞記事によると、①ご当地企画②ファンとの距離を縮めるというこの2点がリサイタルの趣旨ということが読み取れる。これらの点について、自分なりにリサイタルを振り返りつつ再考してみる。

まずご当地企画。
…そもそもの話なんだけど、(その是非はさておき)私も含めて所謂”遠征”をしてコンサートに来ている人というのは正直なところ少なくない。故に、残念ながら三重所縁のものにまったくもって馴染みがない。でも…仮に親の代から三重育ちだとしても、三重のどこかのダンススクールの生徒やメ〜テレ(=愛知のテレビ局)のアナウンサー、そしてふなっしー程の求心力もないゆるキャラとエイトが絡んだところで、エイトが好きでエイトを見に来た人たちがエイト単体のそれを見るよりもはるかに盛り上がるわけは無いっていう…ことになぜ誰も気づかなかったのだろう……。
いや、盛り上がらなかった・白けていたとは言わない。でも、一番盛り上がった!最高だった!とは、目先の笑いを取るためなら話を盛ることも厭わないでお馴染みの関西人のわたしですら絶対に言えない…。

二つ目の”ファンとの距離を縮める”という点について。これは、公演中「やりたかった」と公言した上でわざわざそれだけのためのメドレーを組んでいるくらいだから、彼ら自身もこの部分にはかなり重点を置いていたのでしょう。
でもさ、ものすごく近距離でファンと対峙したあなた方の約半数は、明らかに困惑の表情だったんですけど…!
「いやいや、こちらが無理矢理首根っこ掴んでやらせたならまだしも君らから近づきたい距離を縮めたいってこういうイベントをやると決めたんでしょうにアリーナ規模の近距離で接触できるイベントをこのタイミングで是が非でもやってくれなんてこちらは一言も頼んでませんしそれをやったらこんな感じになることくらい容易に想像ついたと思うんだけどその”やりたかったこと”をいま念願叶ってやれているんだからもっとこう積年の喜び的なものを爆発させてもいいんじゃないのけ…」と、ものすごい形相でガッついてくるファンを見てあからさまに当惑しているメンバーを目で追いながら能登弁で呟かずにはいられなかった。


加えて新聞記事にもある”10曲前後のライブパフォーマンス”について。

昨年の十祭は実に良いイベントだった。彼らの歴史とドラマと可愛さとカッコよさと、あと若干の切なさがスタジアム内に飽和していて、どの公演も本当に素晴らしかった。「あと10回は見たかった」と、今後4年は言い続けるであろう。
…で、その翌年に十祭で大好評だったジャニーズメドレーの二番煎じどころかそれを水で薄めたようなものを見せるって一体どういう意図?!
前回より下がってどうするんだよ!常に上回っていけよ!!関係ないけどDye D?も年々仕上がりが下がっていってません?!ああでも、君だけにと青いイナズマはとても良かった!!!!あと、山田はその曲じゃなくてもっと踊る曲(雨のメロディとか)が良かったなと個人的には思いました(踊る二人が好きなので)。
中でも、私が一番「…。」となったのは、アンコールの無限大だった。
歌の最中「なぜ私は遠路遥々三重まで来て延々歌を唄わされている&客の歌を聞かせられてるんだろう…」と至極冷静になっている自分が居た。
いや、ひとつのうたの時のように客が歌うこと自体を一つのコーナーに昇華できていたならまだいいんです。単に、適当に、何の計画性も無く歌わせていただけっていう。そしてたまに思い出したかのように歌うメンバー…なんだったんだあれ…狐につままれたような気分だった……。

そんなリサイタルにおいて彼らが一番カッコよくそして活き活きとして見えたのは、本編最後の言ったじゃないかとズッコケ男道の時、つまり客から遠く離れたメインステージでバンド演奏をしている時だった。
リサイタルのどんな時よりも、魅力的にそして彼ら自身が楽しそうに見えた。
どうせチケット取りにくいのは同じなんだから、こんなにカッコよくて活き活きとした顔を見せてくれるなら、いっそのことバンド形態オンリーでツアーでもすればいいのにその方がよっぽどwin-winなのでは…と、三重サンアリーナでなんだかよく分からない心境に陥っている中でふと思ったのでした。


私はエイトに関してハードルが劇的に低い。正直ハードルなんて無いに等しくそれが地中に埋まっているレベルで、低い。
それは諦めとか期待していないからとかそういうネガティブな理由では決してなく、単純に彼らのことが好きすぎるあまり彼らが存在しているというだけである程度の満足を得られる体質に私自身がなってしまっているからだ。
リサイタルも、これだけ悪態をついておきながらやっぱり一番最初に出る感想は「楽しかった」ということに尽きる。
7人が揃って笑っているだけで楽しいし、それだけで私の無いに等しいハードルを軽々と超えていく。やっぱりエイトが好きだなーまたはやく次を見たいなーと素直に思った。
一方で、このご当地企画を携えてあえてチケットがとりにくいアリーナ規模で地方を回る”リサイタル”というものの必要性および必然性が、実際にそれを目にした後でも相変わらず解らなかった。
関ジャニ∞はこの”リサイタル”にいったい何を求めていたのだろう。意義は?目的は?手応えはあります?何よりYOUたちはリサイタル、楽しかったですか?
私は所詮いちファンですから、当然何も解らないわけです。その解らないが故のもやもやが、この鬱陶しい長文を書かせてしまったんだろう。”もやもや”が持っているパワーすごいな。
でも、そういうわけのわからない…蛇足やら理不尽やら不器用さを包含してこその関ジャニ∞なのかなとも思うわけで、彼等がまるっと好きな人間としては、実に如何ともしがたい。
本当、いかんともしがたい男たちである。

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上の文章を綴ったのは三重公演の直後だった。
そのあと福井で行われた2公演に行き、私のリサイタルは終わった。

三重がダメで福井が良かったとかではまったくないし、多分満足度では4公演共にほぼ同じであると断言できる。
でも、福井に行ったことで上記にある三重で生じたもやもやが消化…ってわけでもないけど、ある程度晴れたのは事実である。
具体的にいうと「愛しのナポリタン」の時に、突然ゾンビに成りきった30代の男6人が唯一ゾンビになれなかったヒナちゃんに襲いかかるというそのアホすぎる光景を見て涙を流して笑いながら「この世でこんなにもバカバカしく幸福な景色が他にあるのだろうか…」と思うと同時に、胸の内に渦巻いていたもやもやの存在感が稀薄になっていることに気づいた。
なんかもう、必要性!とか必然性!とか、そんなことを熟慮して解を求めたり、一喜は兎も角一憂すること自体がものすごくナンセンスだなと。目の前のこの刹那的で貴い光景を全力で楽しむ、それで十分じゃないかと。
私を達観させたゾンビたち。まるちゃんが憧れている理由がちょっと分かった気がしないでもないこともない。

要するに、2015年の不可解な夏を経てさらに関ジャニ∞に対する寛容さと情が増したというお話でした。